沿革

◇庄川上流用水土地改良区の沿革
 本土地改良区は、二万石用水土地改良区、新用水土地改良区、南砺用水土地改良区の3用水土地改良区が平成14年7月より合併協議を重ね、平成16年2月10日に合併予備契約を締結し、平成16年9月1日に設立した土地改良区です。
◇組織変遷
◇合併前の区域図

上図をクリックすると拡大します。
(PDF 637KB)

◇合併前の各用水の歴史
《新用水の歴史》
 庄川水系では最も古い用水で、鎌倉中期頃に開設されたと伝えられています。当時、庄川水系には用水らしいものは無く、初めて掘削工事を施して開設した用水なので『新用水』と名付けられたと言われています。取水口は庄川の中州の「赤岩(大水でも流れることのない岩)」を頼りにし、わずかな費用で多量の水を取り込むことができ、天恵の好用水でした。
 宝永7年(1710)に山見八ケ用水が分派として編入され、石高は7,000石程で、俗に七千石用水とも呼ばれていました。
 寛保3年(1743)に加賀藩は庄川の治水、米作の増収を図るため、新用水取入れの下流に取入れのあった野尻岩屋口用水(後の二万石用水)と合口することを命令しました。しかし、新用水は灌漑水の権利や、経費負担等の問題もあり、同意しませんでしたが、加賀藩の圧力下で3年後の延享3年(1746)に合口されました。合口の条件は、用水取入れ費は過去10ケ年の平均費用のほかは負担しない、また取入堰から山見八ケ用水分水までの導水路の江浚えや崖崩れの復旧、常時の通水管理に至るまで野尻岩屋口用水が保障するというものでした。新用水は不本意ながら合口を受け入れたという経緯があり、野尻岩屋口用水は一方的に経費を負担させられたので、双方に不満がありましたが、数回にわたる協議の末、和解しました。
 明治35年(1902)には、新用水、山見八ケ用水、野尻岩屋口用水の共同水路部分を維持管理する二万七千石用水普通水利組合を設立しました。この二万七千石用水普通水利組合は庄川合口堰堤の完成とともに解散となりました。また、明治35年(1902)に新用水普通水利組合を設立、昭和27年(1952)に新用水土地改良区となりました。
《山見八ケ用水の歴史》
 山見八ケ用水は鎌倉中期頃に開設されたと言われており、新用水より高い地域へ等高線沿いに用水が引かれています。開設時期は新用水よりも遅いと言われています。『山見八ケ』の名称は、山見村ほか8ケ村(北川、戸板、今里、川原崎、沖、高瀬、北市、三清)を灌漑していたことから付けられました。
 灌漑地域には東大谷川、西大谷川、干谷川、赤祖父川の4つの谷川が流れており、大雨時には大洪水となり農地に甚大な被害をもたらし、夏季の用水需要期には枯渇して、晴天が10日続けば水の取り合いによる流血騒ぎも起こったということです。
 宝永7年(1710)に新用水に編入され、分派用水となりました。延享3年(1746)に野尻岩屋口用水(後の二万石用水)が新用水へ合口した時に、山見八ケ用水の取水が困難になり、寛延2年(1749)に取水口を上流へ移動しました。また、文政8年(1825)、新用水、野尻岩屋口用水の通水量を確保するため合口された水路を掘り下げる計画がたてられ、それにより山見八ケ用水は取水不能になるため、取水口をさらに上流に新設しました。これらの工事費用は野尻岩屋口用水が負担しました。
 明治35年(1902)には、新用水、山見八ケ用水、野尻岩屋口用水の共同水路部分を維持管理する二万七千石用水普通水利組合を設立しました。この二万七千石用水普通水利組合は庄川合口堰堤の完成とともに解散となりました。明治36年(1903)に、山見八ケ普通水利組合を設立しました。明治38年(1905)、川底が浸食され水量が不足してきたため、自然流入のほかに水車を1台設置して揚水しましたが、それでも通水量が少なく、水車を2台、3台と増設したり、石油発動機や電動機による揚水ポンプを設置するなど苦労を重ねました。
 昭和15年(1940)に庄川合口堰堤が完成した後は、水量は豊富となりました。昭和27年(1952)に山見八ケ用水土地改良区となりました。
《二万石用水の歴史》
 野尻岩屋口用水(後の二万石用水)は鎌倉時代に開設されたと言われており、庄川沿岸諸用水の中で最も広い耕地を灌漑しています。『二万石用水』とは、石高二万石の地域を有していたことから言われており、明治36年(1903)に野尻岩屋口用水を改称し、二万石用水普通水利組合を設立しました。
 野尻口とは旧野尻川跡を整備した用水で、岩屋口は「敷篭(しっかご)のドンド」と呼ばれるところで野尻口と別れていました。野尻岩屋口の取水口は現在の庄川合口堰堤付近にありましたが、大口のため取入れは技術的に困難を極め、出水のたびに鳥足が流されていました。
 加賀藩は庄川の治水のため、「松川除け」という堤防を築きましたが、堤防に野尻岩屋口の大きな取入口があるのは治水上問題があるとして、寛保3年(1743)に新用水の取入口に野尻岩屋口用水を合口することを計画しました。野尻岩屋口用水側は賛成しましたが、新用水側は強固に反対しました。しかし加賀藩の圧力下で延享3年(1746)に合口されました。
 明治35年(1902)には、新用水、山見八ケ用水、野尻岩屋口用水の共同水路部分を維持管理する二万七千石用水普通水利組合を設立しました。この二万七千石用水普通水利組合は庄川合口堰堤の完成とともに解散になりました。明治36年(1903)に二万石用水普通水利組合を設立、昭和27年(1952)に二万石用水土地改良区となりました。
 二万石用水は砺波平野中央部の大区域を占め、常に用水の主軸として活動は旺盛でした。庄川用水合口事業においても、二万石用水の動向がその進展を左右しました。
《南砺用水の歴史》
 南砺市の井波、井口、城端の山々からの渓流のみで灌漑していた地域では、日照りが続く夏は渓流水が少なくなり稲を枯らしてしまうこともあり、用水の配分をめぐる水争いが絶えず、安定した補給用水を確保することは長年の悲願でした。昭和30年代に御母衣ダムの築造、和田川、小矢部川の綜合開発計画をきっかけに山麓地帯の用水不足解消の動きが強まり、南砺用水は昭和40年(1965)から工事を開始し、昭和48年(1973)に完成した総延長12.9kmの補給用水です。この用水は一級河川庄川の小牧ダム右岸より取水し、南砺市理休(旧城端町)まで通水しており、多くの山や谷を貫き、水路トンネル、サイフォン、水路橋などが数多くあります。
 南砺用水は二万石用水、新用水、山見八ケ用水などの水利権を割愛してもらい、かんがい期最大2.4㎥/秒の水を流しています。
 この地域では大切な水を無駄なく合理的に利用するために、ファームポンドという農業用水を一旦貯留する溜め池が作られています。ファームポンドからは地下にパイプラインが各田んぼに引かれており、必要な時だけバルブを開けて田んぼに水を入れる仕組みになっています。
 南砺用水土地改良区は昭和40年(1965)に設立し、昭和57年(1982)には山見八ケ用水土地改良区を吸収合併、平成15年(2003)には赤祖父郷土地改良区を吸収合併しました。
《赤祖父ため池の歴史》
 赤祖父川は、その水源に約70haのブナ林を持ち、古くから水源涵養林として大切に守られ約600haの田畑を潤してきました。しかし、干ばつになると水争いが絶えず大変苦労していました。特に大正15年の干ばつ被害は大きく、ため池築造の声がわき上がり、昭和7年9月に県営赤祖父郷用水補給事業ため池築造工事が起工されました。しかし、太平洋戦争による労働力不足から工事は進まず、昭和20年の完成までには13年の歳月と延べ13万5千人が動員され、特に堤体の搗き固め作業には女人夫7,800人が動員されました。
 ため池が完成し、また全国的にも珍しい円筒分水槽により公平な水の分配が可能となったことから、長年の水争いは解消されました。
 赤祖父ため池には、ヘラブナ、鯉、マブナ、ワカサギ、モロコなどが生息し、周辺には様々な野鳥、ニホンカモシカ、ウサギなどが多数生息しています。
 ため池では『ふれあいヘラブナ釣り大会』や『つばきの郷赤祖父夏まつり』など様々な行事が開催され、一年を通じ地域の人々に癒し・憩いの場として親しまれています。
 昭和27年(1952)に赤祖父郷土地改良区が設立し、平成15年(2003)に南砺用水土地改良区に吸収合併されました。