- 《山見八ケ用水の歴史》
- 山見八ケ用水は鎌倉中期頃に開設されたと言われており、新用水より高い地域へ等高線沿いに用水が引かれています。開設時期は新用水よりも遅いと言われています。『山見八ケ』の名称は、山見村ほか8ケ村(北川、戸板、今里、川原崎、沖、高瀬、北市、三清)を灌漑していたことから付けられました。
灌漑地域には東大谷川、西大谷川、干谷川、赤祖父川の4つの谷川が流れており、大雨時には大洪水となり農地に甚大な被害をもたらし、夏季の用水需要期には枯渇して、晴天が10日続けば水の取り合いによる流血騒ぎも起こったということです。
宝永7年(1710)に新用水に編入され、分派用水となりました。延享3年(1746)に野尻岩屋口用水(後の二万石用水)が新用水へ合口した時に、山見八ケ用水の取水が困難になり、寛延2年(1749)に取水口を上流へ移動しました。また、文政8年(1825)、新用水、野尻岩屋口用水の通水量を確保するため合口された水路を掘り下げる計画がたてられ、それにより山見八ケ用水は取水不能になるため、取水口をさらに上流に新設しました。これらの工事費用は野尻岩屋口用水が負担しました。
明治35年(1902)には、新用水、山見八ケ用水、野尻岩屋口用水の共同水路部分を維持管理する二万七千石用水普通水利組合を設立しました。この二万七千石用水普通水利組合は庄川合口堰堤の完成とともに解散となりました。明治36年(1903)に、山見八ケ普通水利組合を設立しました。明治38年(1905)、川底が浸食され水量が不足してきたため、自然流入のほかに水車を1台設置して揚水しましたが、それでも通水量が少なく、水車を2台、3台と増設したり、石油発動機や電動機による揚水ポンプを設置するなど苦労を重ねました。
昭和15年(1940)に庄川合口堰堤が完成した後は、水量は豊富となりました。昭和27年(1952)に山見八ケ用水土地改良区となりました。