- 《新用水の歴史》
- 庄川水系では最も古い用水で、鎌倉中期頃に開設されたと伝えられています。当時、庄川水系には用水らしいものは無く、初めて掘削工事を施して開設した用水なので『新用水』と名付けられたと言われています。取水口は庄川の中州の「赤岩(大水でも流れることのない岩)」を頼りにし、わずかな費用で多量の水を取り込むことができ、天恵の好用水でした。
宝永7年(1710)に山見八ケ用水が分派として編入され、石高は7,000石程で、俗に七千石用水とも呼ばれていました。
寛保3年(1743)に加賀藩は庄川の治水、米作の増収を図るため、新用水取入れの下流に取入れのあった野尻岩屋口用水(後の二万石用水)と合口することを命令しました。しかし、新用水は灌漑水の権利や、経費負担等の問題もあり、同意しませんでしたが、加賀藩の圧力下で3年後の延享3年(1746)に合口されました。合口の条件は、用水取入れ費は過去10ケ年の平均費用のほかは負担しない、また取入堰から山見八ケ用水分水までの導水路の江浚えや崖崩れの復旧、常時の通水管理に至るまで野尻岩屋口用水が保障するというものでした。新用水は不本意ながら合口を受け入れたという経緯があり、野尻岩屋口用水は一方的に経費を負担させられたので、双方に不満がありましたが、数回にわたる協議の末、和解しました。
明治35年(1902)には、新用水、山見八ケ用水、野尻岩屋口用水の共同水路部分を維持管理する二万七千石用水普通水利組合を設立しました。この二万七千石用水普通水利組合は庄川合口堰堤の完成とともに解散となりました。また、明治35年(1902)に新用水普通水利組合を設立、昭和27年(1952)に新用水土地改良区となりました。
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【赤岩から取水する二万七千石用水】
(昭和11年)